日本語の数量詞の遊離について 三江学院 毕业设计(论文)报告 题 目 系专业 学 号 学生姓名 指导老师 起讫日期 设计地点
日本語学部日本語学科 卒 業 論 文 題 名 論文作成者 指導教官 日付 2006年04月25日 论文概要 通过大学四年对日语的学习,我发现日语语法以及在日常对话中的很多现象很有趣,使我对其产生了浓厚的兴趣。其中,数量词的游离我觉得最常见,也很有意义,因此我决定以“数量词的游离”为论文的题目。 简单地说,数量词的游离就是数量词在句中的位置改变,但是其意思没有发生很大的变化,当然这也不是绝对的,有些情况下,一旦数量词的位置发生了变化,句意从本质上也发生了改变。比如说,教室里有三个学生和有三个学生在教室,这句话的意思是没有什么不同的。但是,书看了一百页和看了一百页的书,意思就很不一样了。因此,在使用时一定要注意的是,在数量词位置改变的同时,句子的本意是否发生改变。 数量词可以作主语和补足语(不常用),连体修饰语,还可以作连用修饰语。在作为连体修饰语和连用修饰语的时候,有时候意思相同,有时候意思不同,而有时候却不能使用,而且数量词作谓语使用的情况并不多。 在北原保雄的《日本语文法》中提到,“连用修饰语是个未整理的并且非常杂乱的成分,如果不能正确整理这一成分,就无法精确把握如何构造日语的句子。”从这里可以看出研究连用修饰语是很有必要的。因此,在本文中我对其进行了部分的研究,并且在老师的指导下,尝试对其句子结构以及成分进行分析。一般来说,只有副词可以修饰谓语,所以当数量词出现在连用修饰成分的位置时,可以说它带有了“副词的性格”。而在连用修饰成分的位置出现的数量词是从哪儿来的,这就是数量词的游离。 我在本文中,通过大量的举例以及比较,对“数量词的游离”这一论点进行了阐述以及分析,当然这种分析是很有限的,我期待以后有机会可以对其进行更深一步的了解和研究。 关键词:连体修饰语、连用修饰语、数量词的游离、NQC型、NCQ型 要 旨 日本語には、奥津(1969)などで論じられているように、数量詞の遊離と呼ばれる現象がある。しかも、その現象が普通よくあるので、“数量詞の遊離”をテーマにするわけである。 さて、数量詞の遊離とはすなわち文の中に数量詞の位置が変わるということである。その意味がある場合同じで、ある場合違う。北原保雄は「日本語の文法」の中で、「連用修飾語はきわめて未整理な成分で異質なものが雑居しており、この成分を正しく整理しなくては、日本語の文構造を正確に捕まえることはできない。また、連用修飾語に含められている文の成分を整理し、正しく位置付けることによって、日本語の構文は明らかになるのである。」と指摘している。だから、卒論の中で、それに対して、研究して、文の成分を分析してみた。一般的に言えば、用言を修飾することを主要な機能とする語は副詞だけである。多分、そういうわけで、数量詞が連用修飾成分の位置にする場合に、その数量詞は「副詞的性格」を帯びると言ってもよいだろう。そして、連用修飾成分の位置に出現する数量詞はどこから来るのか。それについて、「数量詞の遊離」説という解釈が出されている。 私はこの文章の中で、連用修飾成分の位置に出現する数量詞について分析してみた。数量詞は、どのような名詞句からでも遊離するわけではないが、影山(1980)は、主語と直接目的語とからは遊離することができると考えているようである。しかしながら、Shibatani(1977)で論じられているように、日本語の数量詞の遊離は、主語、直接目的語といった文法関係ではなく,「が」格名詞句、「を」格名詞句と言った表層格に支配されているとも考えられる。この文章の中で、私はたくさんの例を挙げて、「数量詞の遊離」について、ただ僅かな研究と分析をしてみた。もし、チャンスがあれば、もっと深く研究したいと思う。 キーワード:連用修飾語、連体修飾語、数量詞の遊離、NQC型、NCQ型
||| 日本語の数量詞の遊離について 時の経つのが早いもので、もう私は日本語を勉強してからもう四年間になった。その期間に、私は数量詞についてのおもしろさを強く感じられる。だから、論文のテーマをそれにしたいと思っている。 序論 渡辺実は、「国語構文論」の中で、「連用修飾語は構文論の未整理のあわせよの場所、構文論のはきだめだったのである。」と述べている。 北原保雄は「日本語の文法」の中で、渡辺実のこの見方に賛成して、「連用修飾語はきわめて未整理な成分で異質なものが雑居しており、この成分を正しく整理しなくては、日本語の文構造を精確に捉まえることはできない。また、連用修飾語に含められている文の成分を整理し、正しく位置づけることによって、日本語の構文は明らかになるのである。」と指摘している。 ここから見て、連用修飾語を研究する意味があることが分かる。 連用修飾語は用言に連なって修飾する語の意味で命名されたものである。北原保雄は連用修飾語よりも連用修飾成分と呼ぶことに傾いている。そして、連用修飾成分になれる語は副詞、形容詞と形容動詞の連用形、数量詞などいろいろある。また、用言を修飾することを主要な機能とする語は副詞だけである。言い換えれば、副詞は連用修飾成分の代表だと言えよう。たぶんそういうわけで、数量詞が連用修飾成分の位置にする場合に、その数量詞は「副詞的性格」を帯びるといってもよいだろう。 私はこの文章の中で連用修飾成分の位置に出現する数量詞、つまり、数量詞の遊離について分析してみたいと思う。 本論 第一章 数量詞の文法的機能 数量詞の中に、基数詞と序数詞という二つの種類がある。基数詞が数量を表して、序数詞が次序を表す。 一般的に言えば、基数詞は主題とするのができない。なぜかというと、基数詞は数量の方面の抽象的な言語符号だという性質があるからである。しかし、特定な文中に、主題とするのができる。たとえば、「太郎と花子が結婚した。二人は今新婚旅行をしている」。「交通事故で三人の怪我人がでた。三人はすぐ病院に運ばれた」。序数詞が主題とするのができる。たとえば、「98号は池上さんだ」。「第二章は活用について述べることにする」。 数量詞は主語と補充語(あまり使わない)とするのができる。たとえば、「一番目が僕のほしいものです」。「およそ百人が遭難した」。「100メートルを12秒で走るというのだから、かなりの速さといわねばならない」。「1位には金メダル、2位には銀メダルを授与する」。 数量詞は連体修飾語とするのができる(よく使う)。たとえば、「六番目の問題が私にはできない」。「一つの事故で交通を長時間渋滞させた」。 連用修飾語とする (これもよく使いう。この場合、だいたい副詞と同じだ)。たとえば、「この論文は二度読んでみたけれども、理解できなかった」。「2時間、ずっと立ったまま、彼を待っていた」。 連体修飾語とする時、連用修飾語とする時、ある時意味が同じで、ある時違うが、ある時使わない。たとえば、「本が12冊並んでいる」。「12冊の本が並んでいる」。この場合、意味が同じだ。「100ぺージの本を読んだ」。「本を100ぺージ読んだ。」の場合、意味が違う。 数量詞は用言とする時があまり多くない。たとえば、「最高時速は250キロです」。「朝食は大体200円だから、まあ、一日千円かかるかな」。
|||第二章 数量詞の遊離 連用修飾成分の位置に出現する数量詞(例えば鉛筆を五本買う)の「五本など」はどこからくるのか。それについて、「数量詞遊離」説という解釈が出されている。 即ち,神尾昭雄1978、奥津敬一郎1983、柴谷方良1978のように、変形文法の立場から、日本語にも「数量詞遊離」の現象を認め「五本の鉛筆」や「鉛筆五本を」など、補充成分内に数量詞を持つ基底形から遊離したものとみなす見解である。 数量詞が連用修飾成分の位置に出現する表現を、奥津1983にならって、NCQ型(名詞N+格助詞C+数量詞Q)と示すことにする。 NCQ型 「鉛筆を 五本 買う」 同様に、これまでに、想定された基底形を示すと次のようになる。 QのNC型 「五本の鉛筆を 買う」(神尾1978、柴谷1978など) NQC型 「鉛筆五本を 買う」(奥津1983) しかし、このような構成要素の配列の型そのものから見ると、QのNC型やNQC型でありながら、数量詞を遊離しえないもの(1-3)や逆に基底形を想定し得ないNCQ型が存在することに注目される。 1a 2000ccの車を 買った b* 車を 2000cc 買った 2a 私達三人が 行った (三人組である私達) b* 私達が 三人 行った (私達の中の三人) 3a 十秒三の世界記録を 更新した b 世界記録十秒三を 更新した c* 世界記録を 十秒三 更新した(十秒三だけ縮めた) 4 ピサノ斜塔は 1950年よりも 五度程 傾いている 5 車が 3m スリップした 6 世界記録を 十秒三 更新した だから、NCQ型の数量詞を基底形から遊離したものと考えるのは、基底形とそれに対応するNCQ型とが同義であるとみなすのである。柴谷1978は、NCQ型とQのNC型について、数量詞は問題の構文のいずれにおいても、ある名詞句を限定修飾していること、この修飾機能をそのまま反映しているQのNC型の構文が基本構造であると考えられることから、QのNC型を深層構造に近いものと仮定し、NCQ型は連体修飾構造中の数量詞を遊離することによって発生されたものとしている。 先にあげた2や3は、十秒三NCQ型とそれ以外の型とで、名詞句と数量詞との意味上の関係が等しくないとも考えられるので、ひとまず置くが、次のような文は、名詞句と数量詞との関係が等しいと思われるが、述部が(スル)から(シハジメル)などにかわるとNCQ型は不自然になる。 7a 牛肉500gを 食べる (NQC型) b 500gの牛肉を 食べる (QのNC型) c 一キロ買ってきた牛肉の500gを 食べる (NのQC型) d 牛肉を 500g 食べる (NCQ型) e 一キロ買ってきた牛肉を 500g 食べる (NCQ型) 8a牛肉500gを 食べ始める b 500gの牛肉を 食べ始める c 一キロ買ってきた牛肉の500gを 食べ始める d 牛肉を 500g 食べ始める e 一キロ買ってきた牛肉を 500g 食べ始める この8d,eの不自然さは、名詞と数量詞との関係ではなく、数量詞と述部との関係に由来するのであろう。そして、この不自然さは次のように4~6の述部を(シハジメル)に変えた場合の不自然さと同質とみなせそうだ。 9a* ピサノ斜塔は 1950年よりも 五度程 傾キハジメテイル b* 車が 3m スリップシハジメタ 奥津1983は、基底形から遊離された数量詞は「副詞的性格」を帯びるという(p2)。9a~cと8d,eの不自然さは、連用修飾成分の位置に出現した数量詞が共通して持つ「副詞的性格」に求められるのではないだろうか。 では、各型相互の関係を見ていこう。 まず、NCQ型とNQC型、QのNC型において、ある型とそれに対応する他の型とが同じ意味を表すかどうかによって、次のようなベン図を作ることができる。
NCQ型 I II III IV
V QのNC型 VII
VI NQC型
IVは7a,b,dのようにいずれの型でも表し得るものである。 I は4~6のようにNCQ型のみが自然であり、他の型に置き換えると不自然になるが、意味の変ってしまうもの、Vは1aのようにQのNC型のみが自然なものVIは2aのようにNQC型以外では意味が変わったり、不自然になるもの、VIIは3a,bのようにNCQ型では意味の変わるもの、IIは次の10,11のようにNQC型では不自然なもの、IIIは12のようにQのNC型では意味の変わるものである。 10a この車は 排気量が 2000cc ある (NCQ型) b この車は 2000ccの排気量が ある (QのNC型) c* この車は 排気量2000ccが ある (NQC型) 11a あの人には 子供が 五人 ある (NCQ型) b あの人には 五人の子供が ある (QのNC型) c あの人には 子供五人が ある (NQC型) 12a 論文を 20ページ 読む(論文>20ページ) (NCQ型) b* 20ページの論文を 読む(論文=20ページ) (QのNC型) c 論文20ページを 読む(論文>20ページ) (NQC型) 各型には、このような独自の表現と他と共通する表現とがあり、他と共通するには、名詞句と数量詞との関係や数量詞と述部との関係、さらには名詞句と述部との格関係などの条件が揃わなければならないのである。 また、NCQ型と他の型との交わりの部分(II,III,IV)に限って、数量詞遊離の現象を認めることは不可能ではない。 NCQ型の数量詞への検討 まず、NCQ型の数量詞は、述部が動詞句以外の時には、現れにくいという構文上の制約があるようである。 13a ここにいる女性は 五人 高校の先生だ b あの会社の受付嬢は 三人 美しい c あの台の上に並んだ牛乳は 五本 古い cf. a ここにいる女性五人は 高校の先生だ (NQC型) b あの会社の受付嬢(中の)三人は 美しい (NのQC型) c あの台の上に並んだ五本の牛乳は 古い (QのNC型) このことから、NCQ型の数量詞は、何らかの形で動詞の表す動作、作用に関連した数量を表しているのではないかということが推定される。 そして、NCQ型の数量詞は、「副詞的性格」を帯びるから、述部に直接関わり、その述部の表す動作、作用の上で先行名詞句と間接的な意味的関係を結ぶのに対し、NQC型以外の型の数量詞は、先行名詞句に直接関わり、先行名詞句が述部と関わることによって、数量詞と述部との間接的な関係ができると考えるのである。||| 第三章 数量詞の遊離と「を」格名詞句 さて、次に、数量詞の遊離と「を」格名詞句の問題に移ります。日本語には、奥津(1969)などで論じられているように、数量詞の遊離と呼ばれる現象がある。 14a. 三人の学生が来た。 b. 学生三人が来た。 c. 学生が三人来た。 このように、14cでは、数量詞「三人」が名詞句中から遊離し、意味的には「学生」を修飾するものの、統語的には連用修飾句になっている。しかし、しばしば論じられているように、数量詞は、あらゆる名詞句から遊離するわけではない。 15a.五本の鉛筆を買った。 b.鉛筆五本を買った。 c.鉛筆を五本買った。 16a.八人の子供にピアノを教えている。 b.子供八人にピアノを教えている。 c.子供に八人ピアノを教えている。 17a.四台のトラックから荷物を降ろした。 b.トラック四台から荷物を降ろした。 c.トラックから四台荷物を降ろした。 18a.五枚のベニア板で巣箱を作った。 b.ベニア板五枚で巣箱を作った。 c.ベニア板で五枚巣箱を作った。 15に示したように、「を」格名詞句から数量詞は遊離することができる。一方、「に」格名詞句、「から」格名詞句、「で」格名詞句などからは遊離することができない。15の「を」格名詞句は目的語であったが、移動補語の場合はどうであろうか。 19a.その村に行くには、三つの川を渡らなければならない。 b.その村に行くには、川三つを渡らなければならない。 c.その村に行くには、川を三つ渡らなければならない。 20a.五つのトンネルを抜けると、その駅に着く。 b.トンネル五つを抜けると、その駅に着く。 c.トンネルを五つ抜けると、その駅に着く。 このように、移動補語である「を」格名詞句からも数量詞は遊離することができる。 このような点について、影山(1980)は、次の21のような例を挙げて、これが「離脱動詞の(NPを)が直接目的語であることを示している」と述べている。 21 部屋を三つ出たところで、先生に出くわした。 先に述べたように、数量詞はどのような名詞句からでも遊離するわけではないが、影山(1980)は、主語と直接目的語とからは遊離し得ると考えているようである。しかしながら、Shibatani(1977)で論じられているように、日本語の数量詞の遊離は、主語、直接目的語といった文法関係ではなく、「が」格名詞句、「を」格名詞句といった表層格に支配されているとも考えられる。 例えば、「与格主語」の場合、「に」格名詞句は主語と考えられるのに、数量詞の遊離を許さない。 22a.三人の学生スペイン語が話せる。 b.学生三人スペイン語が話せる。 c.学生三人スペイン語が話せる。 しかし、次のように、与格主語を主格主語にすると遊離を許すようになる。 22d.学生三人スペイン語が話せる。 このことから見れば、数量詞の遊離は、文法関係ではなく、表層格に支配されていると考えられるのである。これに対して、井上(1978)は、視点の概念を用いて22cを排除し、数量詞の遊離は文法関係に支配されるとしている。 同様に、数量詞の遊離が文法関係に支配されているとする議論として、Harada(1976b)、Ono(1984)などもあり、まだ決着をみていない。文章では、この問題に深く立ち入る余裕はない。ただ一つ指摘しておきたいのは、これまで、この問題が移動補語からの遊離との関わりで論じられることがほとんどなかったことである。しかし、この移動補語の取り扱い決定的な根拠になり得るであろう。つまり移動補語は目的語ではないとなれば、数量詞の遊離が表層格に支配されているとする強力な根拠になるのである。 結論 以上、各型の関係および数量詞の「副詞的性格」から、数量詞の遊離について分析してみた。まだ行き届かないところがたくさんあるから、これから、もし時間があれば、もっと深く検討していきたいと思っている。
||| 参考文献 新日本语语法 作者:朱万清 外语教学与研究出版社 现代日语语法 作者:王子愉 外语教学与研究出版社 标准日语语法 作者:顾明耀 高等教育出版社 日语语法新编 作者:刘振泉 北京大学出版社 现代日语实用语法教程 作者:王志国 中国人民大学出版社 例解日语语法 作者:刘和民 大年理工大学出版社
日语知识点:全称日本语,是日本国的官方语言。语言系属有争议,有人认为可划入阿尔泰语系,也有学者认为是扶余语系,也有日本学者认为是孤立语言(有些日本学者继而提出韩日-琉球语族的概念、并认为日语从属之)或日本语系。
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